穏やかで暖かめのお正月。
今日は、一般的な仕事始めということで
新年としての日常も戻ってきますね。
新年の抱負をあらためてお持ちの方も
すでに歩みを進めている方もいらっしゃるでしょう。
「去年今年貫く棒の如きもの」 高浜虚子(はがき)
“去年(こぞ)今年”とは、
新年の季語にもなっていて、
昭和25年の虚子の有名なこの句にあります。
ゆく年くる年で、暦では、切り替わるものの
昨日の今日でもあり、時の流れが変わるものでなく、
そこに続いている何かがあるともいえましょう。
その何たるかや、あるいは、信念であったり、
句の解釈は、人それぞれでありましょうが、
悠久たる、ダイナミックさをも感じられる気がします。
虚子の句については、以前も触れたことがありました。
前にも述べたように、
虚子は、俳句のあり方として“客観写生”を提唱しています。
句となる感慨はいかほどあってもよいが、
あくまで表現は客観的に平明にといいます。
感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す事実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。
主観の匂い、主観の光り、というものはその単純な平明な描写の中から出て来るのである。
その単純に似たる客観の描写のうちに図らずも作者の深い複雑な主観を捉 え得たときは、読者はそれから深い感銘を得るのである。読者はその単純に似た事実の描写のうちから大きな作者の主観を感得するのである。
心に感動なくて何の詩ぞや。それは言わないでも分っている事である。ただ、作家がその小感動を述べて
得々 としているのを見ると虫唾 が走るのである。そればかりでなく、そういう平凡な感情を暴露して述べたところで、何の得る所もない事をその人に教えたいのである。目を天地自然の森羅万象 に映してその心の沈潜するのを待って、そうしてあるかないかの一点の火がその心の底に灯 り始めて、その感動が漸 く大きくなって来てその森羅万象と融 け合って初めて句になるような径路、その径路を選ぶ事が正しい句作の誘導法だと考えるのである。客観写生を説く所以 の一つ。
『俳句への道』からの、引用が続きましたが、
最も短い詩形である俳句ゆえ、
単に感動をぶつけるのではなく、
人知れず、沈思黙考したような末に、
自然に生まれくるような深さがあってこそ
活きてくるのかもしれません。
ところで、”虚子”(きょし)というのは、
師の正岡子規によるらしいが
本名の”清”(きよし)に由来するというから
面白いですね。
虚子の作品は、今は、青空文庫でもご覧になれます。
また俳句についての著書は、
いわゆる芸術論としても読めて興味深いです。
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